ルック・オブ・サイレンス
(c) Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
THE LOOK OF SILENCE(2014)
監督:ジョシュア・オッペンハイマー
共同監督:匿名
デンマーク・インドネシア・ノルウェイ・フィンランド・イギリス合作
1960年代中頃、インドネシアで虐殺が行われたことを知らなかった。
スカルノ大統領の親衛隊がクーデターを起こそうとしたのだが鎮圧され、その背後に共産党の存在があるということから、100万とも200万ともいわれる人たちが殺されていった。
その殺され方は残虐であり、その様子は前作『アクト・オブ・キリング(THE ACT OF KILLIG)』(2012)で描かれた。
それは、加害者が実際にどうやって殺害していったのかを身振りを交えて証言する作品で、世界に衝撃を与えた。
本作は、その続編となる。
ただ、作ることなった経緯には事情があった。
それは、前作を見た被害者遺族の一人が、「なぜそんなことをしたのかを直接加害者に会って聞きたい」という動機があったからだ。
「真実」を知りたいという欲求は誰にでもあることだが、今回の場合は彼だけではなく近親者にも危険が及ぶ可能性がある。
なぜなら、被害者と同じ地域に暮らす加害者もいるからだ。
そこで、彼らは遺族の職業である眼科検診を利用し、彼らと接触し徐々に核心へと近付く方法を取ったのだった。
これまで、加害者と被害者が裁判所以外で対面する状況はほとんどなかったと思う。
それは前述したが危険が伴うと考えられるからだ。
それにも関わらず、この映画はそれを実行した。
その決断には拍手を送りたいところだが、どうも躊躇してしまう。
本当に、それでよかったのか?
(c) Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
この映画はドキュメンタリーである。
ドキュメンタリー映画というジャンルのイメージには「事実が語られる」と思っている人が多いのではないだろうか。
ただ、実際のところは客観的に「事実」を伝えようとしながらも、そこには主観的な演出が入ってくる。
本当の意味での「事実」というのは、こうした作品として成立したものではなく、報道として扱われているものだろう。
「事実」と「真実」という言葉がある。
この二つの言葉の意味を調べると、「事実」とは「実際の起こった事柄。現実に存在する事柄」、「真実」とは「うそ偽りのないこと。本当のこと。また、そのさま。まこと」とある(ともに『大辞泉』小学館より)。
「真実」に「うそ」や「偽り」といった人が関わる内容が加味されるのであるならば、以下の見方ができるように考えられる。
事実:起きたことそのもの
真実:その人にとっての事実
つまり、ドキュメンタリー映画は人によって作られる作品なので、そこに映し出されるのは「事実」ではなく「真実」として捉えるべきだろう。
それはドキュメンタリー映画が客観的な視点ではなく、主観的な視点に基づくことを意味する。
この作品も、「事実」を写し取っているように捉えられるかもしれないが、筆者には、被害者遺族の視点に立った「真実」を描いているように感じた。
それは歴史的な視点だけはなく、「悪」とは何かに向けられた視点についても同様である。
人が語る時点で、それが「事実」ではなく「真実」という存在になるのなら、歴史の中には既に「事実」なんてものは存在しないことになる。
「歴史は解釈する者の主観を排除することができないものだ」ということを改めに実感した。
「事実」とは一体どこにあり、それは果たして何なのか?
その答えが出るのか出ないのかに関わらず、人が考えたものであるのなら、その答えはあくまで主観的なものである。
(c) Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
7月18日(土)より、名演小劇場にて公開!
ルック・オブ・サイレンス公式サイト:http://www.los-movie.com/